2010年01月25日
まずは自己紹介から①
太田です。
このブログをご覧いただいている皆さん、はじめまして。
(・・・の方がほとんどですよね?)
記念すべき『Da La Cafe.』の第一号。
まずは事業部長・太田の自己紹介から。
生まれ(たのだけ)は母親の実家が有る東京・杉並区の荻窪で、
幼少期~高校までは関東平野のど真ん中、遠くにはガマの油で
有名な筑波山を仰ぎ見、自宅の近くには利根川・鬼怒川・小貝川などの
大河が流れる茨城県の常総市(旧水海道市)という、
どこまでも田園地帯が広がる地域で過ごしました。
(海・山・川がどこにでも有る静岡に比べると、
どこまでも田んぼばかりの本当に変化の無い所です。)
ちなみにちょっとした自慢?!は本籍が東京の八重洲
(東京駅のすぐ近くですね)だということ。
別に住んでいたわけではありませんし、行ったことすら
ないのですが、どうやら父方の爺さんが最初に居を構えたのが
その場所らしく、いまでもその事実を残すべく本籍として
住民票に登録してあるのだそう。
(静岡生まれ静岡育ちの嫁さんは結婚して本籍が東京になった!
と喜んだとか喜んでいなかったとか...?)
小学校ではサッカーと近所の川や池での魚釣りに夢中に。
(挙句の果てには自分達で池を掘って釣堀まで作ってました・・・。)
中学校~高校までは何年か前にオリンピック予選の審判問題で
少しブレイクしそうになったハンドボールに熱中。
インターハイを目指して休み無く練習に明け暮れる生活を送っていました。
(結局インターハイには県大会の決勝で負けて行けなかったのですが...。)
その後は、大学で上京し華やかなキャンパスライフを満喫するはずが、
気がつけばハンドボールを続ける為に千葉の某体育大学に進学。
でも、そこで人生が狂った・・・じゃなくて、決まったのかもしれません。
(前職のに入るきっかけも、この大学時代の先輩からの薦めがあったからなので。)
大学卒業後は、バブル崩壊直後ではありましたが運良く大手の
人材サービス会社に入社。
しかし東京での採用だったにもかかわらず、最初の配属先として
発表されたのはなんと大阪!
関東人?とは全く人種の違う関西の中で、最初の数ヶ月は外国に一人で
住んでいるような気持ちになってしまい、会社の近くに有った淀屋橋の橋の上で
上田正樹の【悲しい色やね】を歌いながら
『オレ、こんなところで何をやってんだ
?』
・・・と涙していたのを思い出します。
結局、関西では大阪に合計4年、和歌山に2年ちょっと居たのですが、
ここでの出会いが、今の自分の仕事を決定づけることになります。
それはもちろん社長をはじめとする今の会社・ジャスティスを
一緒に立ち上げたメンバーとの出会いです。
《次回に続く》
このブログをご覧いただいている皆さん、はじめまして。
(・・・の方がほとんどですよね?)
記念すべき『Da La Cafe.』の第一号。
まずは事業部長・太田の自己紹介から。
生まれ(たのだけ)は母親の実家が有る東京・杉並区の荻窪で、
幼少期~高校までは関東平野のど真ん中、遠くにはガマの油で
有名な筑波山を仰ぎ見、自宅の近くには利根川・鬼怒川・小貝川などの
大河が流れる茨城県の常総市(旧水海道市)という、
どこまでも田園地帯が広がる地域で過ごしました。
(海・山・川がどこにでも有る静岡に比べると、
どこまでも田んぼばかりの本当に変化の無い所です。)
ちなみにちょっとした自慢?!は本籍が東京の八重洲
(東京駅のすぐ近くですね)だということ。
別に住んでいたわけではありませんし、行ったことすら
ないのですが、どうやら父方の爺さんが最初に居を構えたのが
その場所らしく、いまでもその事実を残すべく本籍として
住民票に登録してあるのだそう。
(静岡生まれ静岡育ちの嫁さんは結婚して本籍が東京になった!
と喜んだとか喜んでいなかったとか...?)
小学校ではサッカーと近所の川や池での魚釣りに夢中に。
(挙句の果てには自分達で池を掘って釣堀まで作ってました・・・。)
中学校~高校までは何年か前にオリンピック予選の審判問題で
少しブレイクしそうになったハンドボールに熱中。
インターハイを目指して休み無く練習に明け暮れる生活を送っていました。
(結局インターハイには県大会の決勝で負けて行けなかったのですが...。)
その後は、大学で上京し華やかなキャンパスライフを満喫するはずが、
気がつけばハンドボールを続ける為に千葉の某体育大学に進学。
でも、そこで人生が狂った・・・じゃなくて、決まったのかもしれません。
(前職のに入るきっかけも、この大学時代の先輩からの薦めがあったからなので。)
大学卒業後は、バブル崩壊直後ではありましたが運良く大手の
人材サービス会社に入社。
しかし東京での採用だったにもかかわらず、最初の配属先として
発表されたのはなんと大阪!
関東人?とは全く人種の違う関西の中で、最初の数ヶ月は外国に一人で
住んでいるような気持ちになってしまい、会社の近くに有った淀屋橋の橋の上で
上田正樹の【悲しい色やね】を歌いながら
『オレ、こんなところで何をやってんだ

・・・と涙していたのを思い出します。
結局、関西では大阪に合計4年、和歌山に2年ちょっと居たのですが、
ここでの出会いが、今の自分の仕事を決定づけることになります。
それはもちろん社長をはじめとする今の会社・ジャスティスを
一緒に立ち上げたメンバーとの出会いです。
《次回に続く》
Posted by 株式会社ジャスティス at 11:26
│ジャスティスのこと